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陽なた法律事務所の弁護士が綴る、日常や法に関する豆知識ブログです。

契約書を締結する前に鍵を渡してしまった―賃貸借契約は成立している?

2026.09.15

執筆者 陽なた法律事務所 弁護士  松井竜介

 

こんにちは。弁護士の松井です。

 

建物の賃貸物件の契約では、一般的に、

「賃貸借契約書への署名・押印」

「敷金や保証金などの支払い」

「鍵の引渡し」

という流れで手続が進みます。

 

しかし、実際には、「室内の寸法を測りたい。」「工事業者に中を見せたい。」

「開店準備を早く進めたい。」などの理由から、

正式な賃貸借契約書を締結する前に借主候補へ鍵を渡してしまうことがあります。

では、その後に貸主が契約を締結しないことにした場合、

借主候補から、

「すでにお金も払い鍵も受け取っています。賃貸借契約は口頭で成立しています。」

と言われたらどうなるのでしょうか。

 

今回は、実際の裁判例を参考にした架空の事例により、

賃貸借契約がいつ成立するのか、契約締結前に鍵を渡すことのリスクについて、

解説します。

 

【相談内容】

テナントビルを所有しているオーナーAさんからのご相談。

Aさんは、所有する店舗について、宝飾品の販売店を開きたいというB社と、

管理会社を通じて賃貸借契約の交渉を進めていました。

 

賃料や保証金などについてある程度話がまとまり、

管理会社からB社に賃貸借契約書の案を渡しました。

その後、B社から、

「契約後すぐに開店準備を進めたいので、室内の寸法を測ったり、

工事業者に中を見せたりしたい。」と言われたため、

Aさんは正式な契約締結前ではありましたが、B社に店舗の鍵を渡しました。

 

また、B社からは、初月賃料、保証金、仲介手数料なども支払われています。

 

ところが、その後Aさんは、B社が当初説明していた使用方法とは異なる方法で、

店舗を利用しようとしていることを知りました。

 

そこでAさんは、

「このような利用をされるのであれば、賃貸借契約を締結することはできません。」

と伝え、受け取っていた初期費用を全額返還しました。

 

しかし、B社は、「もうお金も支払っています。」

「鍵も受け取って、店舗の引渡しも受けています。」

「契約書にオーナーの署名押印がなくても、賃貸借契約は口頭で成立しています。」

として、鍵を返さず、そのまま店舗を使用しています。

 

Aさんは、B社に店舗を明け渡してもらうことはできるのでしょうか。

 

【弁護士からの回答】

結論から申し上げると、

賃貸借契約は必ずしも契約書を作成しなければ成立しないものではありません。

つまり口頭でも成立する可能性があるため、

「貸主が契約書に署名押印していないから、絶対に賃貸借契約は成立していない。」

と単純に判断することはできません。

 

もっとも、初期費用を受け取り、鍵を渡していたとしても、

当然に賃貸借契約が成立したことになるわけでもありません。

 

実際に、これらの事情がありながら、

貸主が賃貸借契約を締結する意思表示をしたとは認められないとして、

賃貸借契約の成立を否定した裁判例があります。

今回参考となるのが、東京地方裁判所令和2年10月7日判決です。

 

契約書への署名押印前に1220万円が支払われ、鍵が渡されていた

実際の裁判では、建物所有者と賃借希望者との間で、

仲介会社を通じて店舗の賃貸借契約の交渉が進められていました。

 

借主側は、宝石などの販売を目的として建物を借りたいと申し入れていました。

 

そして、仲介会社から借主側に、

・賃料月額110万円

・保証金や仲介手数料などを含めて合計1220万円

と記載された請求書が渡されました。

借主側は、この請求書に従って1220万円を支払いました。

さらに、貸主は、「知人に建物の内部を見せたい。」

との借主側の依頼を受け、建物の鍵まで渡していました。

 

ここまでを見ると、「これならもう賃貸借契約は成立しているのではないか。」

と思われる方もいるかもしれません。

 

貸主は契約書に署名押印していなかった

しかし、重要な事情がありました。

借主側に渡されていた請求書には「見本」との記載があり、

また、借主側に渡された賃貸借契約書には、貸主の署名押印がありませんでした。

 

その後、貸主は、借主側が当初説明していた宝石販売等ではなく、

建物内に神社を設営して宗教的な行為を行う旨のチラシを配布していることを

知りました。

 

そこで、貸主は借主側に不信感を持ち、

「賃貸借契約は締結しない。」と伝えました。

さらに、それまでに受け取っていた1220万円も全額返還しました。

ところが借主側は鍵を返さず、

「賃貸借契約はすでに口頭で成立している。」

として、店舗を占有し続けました。

 

そこで貸主は、所有権に基づいて建物の明渡しを求めて裁判を起こしました。

 

「契約書がない=契約が成立しない」ではない

ここで注意が必要なのは、

一般的な建物賃貸借契約は、契約書がなくても成立し得る

ということです。

 

民法上、賃貸借契約は、一方が物を使用・収益させることを約束し、

相手方が賃料を支払うことを約束することによって成立します。

したがって、「正式な契約書をまだ作っていない。」

という事情だけで、必ず契約成立が否定されるわけではありません。

 

そのため、この事件でも裁判所は、単に「貸主が契約書に署名していない。」

という一点だけで判断したわけではありません。

 

裁判所は、契約締結までの一連の経緯を確認した

裁判所は、

・貸主と借主が仲介会社を通じて賃貸借契約の交渉をしていたこと

・借主が請求書に従って1220万円を支払ったこと

・借主が賃貸借契約書に記名押印して返送したこと

・借主が建物の鍵を受け取ったこと

・その後、実際に建物を占有していたこと

などから、少なくとも一定の時期までは、

賃貸借契約を締結することを前提として手続が進められていたこと自体は、

認めています。

 

しかし、それだけでは賃貸借契約が成立したとは判断しませんでした。

 

「貸主が契約するという最終的な意思表示をしたか」が問題

裁判所が重視したのは、

貸主自身が、最終的に賃貸借契約を締結する意思表示をしたといえるか

という点でした。

 

この事件では、

・借主に渡された請求書には「見本」と記載されていた

・貸主は賃貸借契約書に署名押印していなかった

・貸主は、その後、賃貸借契約を締結しない旨を明確に伝えていた

・借主から支払われた1220万円を全額返還していた

という事情がありました。

 

そのため裁判所は、

貸主が賃貸借契約を締結する旨の意思表示をするに至ったとは認められない

として、賃貸借契約の成立を否定しました。

 

つまり、「お金を受け取った」「鍵を渡した」

という事実だけで契約成立が決まるわけではなく、

 

当事者間の交渉経過や契約書の状況、その後の対応などを総合的に見て、

双方が最終的に契約を成立させる意思を合致させていたのか

が判断されたということです。

 

建物の明渡しと損害金の支払いが認められた

裁判所は、賃貸借契約が成立していない以上、

借主側には建物を占有する権限がないとして、

貸主による建物明渡請求を認めました。

さらに、借主側が建物を占有していた期間について、

月額110万円の賃料相当損害金の支払いも認めています。

 

なお、この裁判では、仮に賃貸借契約が口頭で成立していたとしても、

借主側が約7か月にわたって賃料を全く支払っていなかったため、

貸主による解除によって賃貸借契約は終了しているとも判断されており、

いずれにしても建物の明渡は認められる事案だったことになります。

 

貸主側としては「契約前に鍵を渡さない」ことが重要

今回の裁判では、最終的に貸主の主張が認められました。

しかし、「結果的に契約成立が否定されたから問題なかった。」

と考えるべきではありません。

 

貸主は、借主側が鍵を返さず建物を占有し続けたため、

最終的には裁判を起こして明渡しを求めざるを得なくなっています。

この間賃料が入らないというリスクもありますので、

このようなトラブルを避けるため、

「賃貸借契約書への署名押印→諸費用の授受→鍵の授受」

という手順を改めて確認し、

契約成立前には鍵を引き渡さないよう注意すべきでしょう。

 

特に店舗や事務所の場合、「内装業者に見せたい。」「採寸したい。」

「オープン準備だけ先にしたい。」などの理由で、

契約締結前に鍵の交付を求められることがあります。

 

しかし、一度鍵を渡して相手が建物の占有を始めてしまうと、

「契約は成立している。」「借主として使用する権利がある。」

などと主張される可能性があります。

 

その結果、今回の裁判のように、契約が成立していないこと自体を、

裁判で争わなければならなくなることもあります。

 

【今回のポイント】

賃貸借契約については「契約書に署名押印していないから契約は成立していない。」

とも、「初期費用を支払って鍵を受け取ったから契約は成立している。」

とも、一概にはいえません。

 

今回の東京地方裁判所令和2年10月7日判決では、

借主側が1220万円を支払い、鍵も受け取って建物を占有していましたが、

貸主が賃貸借契約書に署名押印していなかったことや、

その後契約を締結しない旨を明確に伝え、受領金を返還したことなどから、

貸主が契約を締結する最終的な意思表示をしたとは認められないとして、

賃貸借契約の成立が否定されました。

 

もっとも、これは、

「契約書に署名するまでは、どのような行動をしても契約は成立しない。」

という意味ではありません。

賃貸借契約は口頭でも成立する可能性がありますので、

契約書への署名押印前に賃料や保証金を受領したり、鍵を引き渡したりすると、

契約が成立したかどうかについて紛争になる可能性があります。

特にオーナーや管理会社としては、

契約書への署名押印が完了する前に、安易に鍵を渡さないこと

が重要です。

 

どうしても採寸や内覧などのために鍵を渡す必要がある場合には、少なくとも、

「今回の鍵の交付は建物の引渡しではない」

「賃貸借契約の成立を意味するものではない」

「使用・占有を認めるものではない」

といった点を明確にした書面を作成しておくことも検討すべきです。

 

賃貸借契約が成立しているかどうかは、契約書の有無だけではなく、

契約交渉の内容、金銭の授受、鍵の交付、当事者の言動などを

総合的に検討する必要があります。

 

ネット上の情報やAIによる回答だけで判断するのではなく、

個別の事情に応じた適切な判断をすることが大切です。

 

ご心配な方は、より詳細なご相談をおすすめいたします。

 

※なお、上記事例はあくまで架空のものであり、

実在の人物、団体とは一切関係ありません。

 

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【参考記事】

契約書に押印する前ならキャンセルできる? 賃貸借契約成立前の交渉トラブルと「契約締結上の過失」とは

契約する前にきちんと契約書を確認していますか?

 

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